物語の季節 Saison |
パリから夜行列車で着いたメグレは、夏の休暇のような印象を受ける。まだ3 月なのに、輝く太陽の光を浴びてすべてがまぶしく暑く汗ばんで感じられる。 (Il faisiait chaud. Bien qu'on ne fût qu'en mars, la peau était moite, avec une odeur d'été; Chap.2) |
メグレの状態 Son état |
南仏のリゾート地、カンヌ、アンティーブが舞台である。青い空、紺碧の海、 そして何よりも光り輝く太陽、ミモザの花の甘い香りなど。そもそもコートダジュ ールは仕事に来るような所ではない。出迎えた現地の刑事までが「何か飲み ませんか?」と頻繁に誘うのも不真面目な感じがする。(Maigret faisait un vain effort pour prendre les choses au sérieux; Chap.1er) メグレのドブネズミ色の背広なども海岸で甲羅干しをする大勢のバカンス客 たちから見れば汚点のような印象なのだ。(Le soleil était chaud. Maigret, en complet sombre, faisait tache parmi les peaux nues; Chap.11) |
事件の発端 Origine |
富豪や有名人の別荘の並ぶアンティーブで中年の男が殺された。その男と 同居していた若い女とその母親がトランクを抱えて逃げ出したのを不審に思い、 警察が引き止めて家宅捜索をしたところ、庭先からその家の主人の死体が見 つかったのである。ただしこの男は戦時中に情報局で働いていたので、国際 スパイ事件ではないかと思われ、パリからメグレが派遣され、夜行列車でアン ティーブの駅に降り立ったのだった。上司からは「とにかく面倒なことにはなら ないように」(Surtout, pas d'histoires; Chap.1er)と言われてきた。 被害者はオーストラリア出身のウィリアム・ブラウンという男で、故国での事 業や家族を棄ててこの地に住み着くようになった。それから10年間別荘地で のらりくらりの生活を送り、金がなくなるとどこかへ生計費を調達に行って戻っ てくるが、その出所は決して教えなかった。ある日の夕方、いつものように数 日間の不在のあと、酔っ払って彼が戻ってきたと思ったら、背中をナイフで刺 されて事切れていたのだ。 |
題名の意味 Ça veut dire |
第3章になってやっと表題の「リバティ・バー」が出てくる。ここは被害者がカ ンヌにやってきたときの立寄り先だった。というか、不思議な雰囲気をもった居 心地の良さを感じる狭苦しい場末のバーだった。もはや華やかなカンヌではな い場所。幅が狭い小路の建物の間に洗濯物が横に渡して干されるような場所 だ。 バーの中の広さは2m×3mと書かれているが、実際はもうひと回りくらいは 広いだろうと思う。大人が 4~5人以上は入れないほどの狭さながら、常連 もいるというのは居心地がいいからなのだろう。日本でも一般に昔からのバー ・スナックの店で、こんな狭いところによくも、というような小さな店も多いのは 確かだ。 ここは不思議な魅力というか魔力をもった場所である。ここへの聞き込みを終 えて出てきたメグレが何か悪い場所から出てきたような印象で後を振り返る という場面がある。(Maigret sortait du Liberty Bar comme on sort d'un mauvais lieu; Chap.4) 被害者のブラウンが毎月何日間か泊まりこんだというのも、心に安らぎを求 める究極の寄港地としてだからではなかったのか。(Et le Liberty Bar n'était- il pas le dernier havre, quand on avait tout vu, tout essayé en fait de vices?; Chap.4) 直訳的な『自由酒場』という邦題名そのものにもすでにレトロな雰囲気がある。 |
ジャジャおばさん Madame Jaja |
登場人物の中でもっとも強烈な存在感をもって描かれる。夫にも先立たれ、 カンヌの場末にある小さなバーを経営している。人生のさまざまな経験を経て、 達観した自信に満ちた態度でメグレにも接する。特に南仏風の料理(サラダと 羊股肉のロースト)はメグレが捜査中にもかかわらず我慢できなくなって手を 出してしまうほど「傑作」に見えた。(La grosse femme préparait une salade frottée d'ail qui avait l'air d'un pur chef-d'œuvre; Chap.3) 非常に太っているので歩くのが大変なのだが、大詰めとなるその夜は、メグ レが待てど暮らせどなかなかバーに帰ってこない。それから急転直下する 結末までの話の展開は、戦前の白黒映画の傑作にも匹敵する舞台劇的な迫 力に圧倒される。 「あなたに誓って云ひます。ジャジャはこの世で一番立派な女(ひと)でした」 (伊東鍈太郎・訳/淙穂さんの「メグレ感想その5」から引用) (Je vous jure que c'est la meilleure femme de la terre; Chap.10) シムノンは女性を描くのが巧みである。小説作法としてよく見かける特徴とし て、①複数の女性を対置させることが多い、②姉妹、母娘などの対比と会話、 ③女同士の抗争と運命の分岐点(幸/不幸)などである。 |
付記(因縁の 「自由酒場」) |
メグレ物の作品を全巻揃えたいと思うメグレ・ファンは少なくない。なかなか 見つからない本の最右翼がこの『自由酒場』である。他にも雑誌掲載のみで 終わっていたり、文庫本で絶版になって久しい、という作品もあるが、この『自 由酒場』に関して言えば、戦前に、しかも非常にマイナーな出版社から単行 本で出されたことまでは、何人か方の熱心な調査によって突き止められてい る。発行部数も少なく、いわばマニア垂涎の本なのである。 あるファンの方は仕事を休んで国会図書館へ出かけ、収蔵されているたっ た一冊の『自由酒場』を通読されたという。それを知ってそのものすごい執念 に圧倒された。 別のファンの方は全巻蒐集に挑戦されたが、この本だけはやむを得ず英訳 本でお茶を濁したという。まさに因縁の『自由酒場』である。 一般のメグレ・ファンにとっても幻のこの本を、僕は原書の古本でうまく入手 でき、辞書と首っ引きでなんとか読み通すことができたので今回はノートとし て概略をまとめ、少なくとも『自由酒場』とはどんな作品かをお知らせしたいと 思ったわけである。いずれどこかで改訳されて出版されることを念じずにはい られない。 |